鳥取にはかつて強力(ごうりき)といわれる酒米があった

ー酒米のルーツー

強力米は明治の中頃、鳥取県東伯郡下中山村(現 西伯郡大山町)の渡邊信平氏が在来品種の中から育成栽培したのが始まりとされている。その頃には農業試験場などはまだなく、つまり心意気があり、地主でもあった篤農家の渡邊氏は優良品種を求めて長い時間をかけた選抜を自らの土地で行ったということだ。

大正4年(1915)に鳥取県立農業試験場で系統分離され大正10年(1921)に奨励品種に採用されるころには、強力米を鳥取の特産品として拡販していこうという機運が高まり、寿司米、酒米として県外にも多く出荷された。最盛期には6千余町部にも達し、名実共に鳥取を代表する特産米となった。ただ強力米は、丈が長く(140cm)大粒で「強力を育てるのは暴れ馬を乗りこなすようなもの」といわれるほど、その育成に泣かされた生産者も少なくなかった。

戦争の影が落ち始めると、更なる食糧増産を求める生産者は少しずつ強力米を別の品種へ変更していき、終戦の昭和20年(1945)には県の奨励品種からも外されてしまう。そして、昭和29年(1954)頃を最後にその姿を消してしまった…。


ー地酒ってなんだー

「本来の地酒の姿」をと、中川氏は強力米の種子を求め各所を奔走するも、未だ見つけ出せてはいなかった。
そんな昭和62年(1987)のある日。中川氏は西尾隆雄氏と邂逅する。西尾氏は元鳥取県立農業試験場であり、鳥取県東部の八頭郡に居を構える地元篤農家でもあった。

自分の蔵の酒を飲みながら中川氏は西尾氏に言った。

「これは確かに地元で取れたお米で造りましたが、これが真の地酒だとは私には言えません。昔、この地に強力という酒米があったことを私は知りました。山田錦は確かにいい米ですが、鳥取から生まれた米ではありません。鳥取だけにしかない鳥取のお米と水で醸す。それが本当の地酒じゃないでしょうか。」

何も言うことはなかった、西尾氏はこの熱い酒造家のために、幻の米を求めて走り出していた。

西尾氏の機転により、農林省種子センターに種子が残っていることがわかったが、あまりに少量のため栽培は断念するほかはなかった。そしてさらに県内の心当たりを尋ね尽くして最後にたどり着いたのが、鳥取大学農学部の木下収教授であった。鳥取大学では昭和30年(1955)から在来の酒造好適米の試験栽培を行っており、それらを育種、保存栽培していた。強力はその命を繋ぎ続けていたのだ。「本来の地酒の姿」をとの熱い男たちの想いに、木下氏は強力米の種子を提供することを快諾した。


ー幻の酒米復活ー

大学より入手した1kgにも満たない種籾を、単一品種醸造ができる収量にまでするには2年の歳月を要した。

「郷土の先輩が残した品種を、この手で復活させる。よし、やってやろう」

一握りの種籾にかけた気持ちを、後に西尾氏はそう語ってくれた。戦前、強力はそのほとんどが鳥取県東部の八頭郡で栽培されていた。約30年の歳月を経て、強力は再び八頭の3畝の田にその根を張った。

...

強力復活のために中川酒造とともに情熱を注いでいただいた元鳥取県農業試験場長、西尾隆雄氏。
右手に玉栄、左手に強力米を掲げ、
その背丈の差を写真に収めさせていただいた。

「米作り」にその人生の多くをかけた男のプライドが、昔ながらの農法で郷土の先人達が残した品種を復活させることに燃えた。
昭和63年(1988)秋。篤農家、西尾隆雄氏はその種籾から2.5俵を収穫した。2年目、西尾氏は熱い酒造家の思いにこたえるべく、モロミ一杯分の収量を目標に周囲を巻き込んでいく。農協に掛け合い、共に「強力米」を栽培してくれる有志を募った。手間のかかるその品種の栽培に、尻込みするものも少なくなかった。それでも昔、強力米の収量ほとんどを栽培していた八頭の各地で、心意気を持った8名の、まさに八つの頭の篤農家たちが「本来の地酒の姿」という夢に賛同し、強力米の育成へと漕ぎだした。

「よっぽど損をする気でつき合ってくれた人です」当時を振りかえり西尾氏がそう言って笑った。

8名は初めて手がける品種に戸惑いながら、意見を出し合い助け合い、平成元年(1989)秋には、70俵、4200kgの強力米が収穫された。その年、八頭の田の畦には「強力米復活の地」と書かれた木碑が打ち込まれた。

平成元年(1989)11月、杜氏曽田宏氏が例年通り中川酒造へ入蔵。
曽田氏は、平成14年に「現代の名工」にも選ばれた名出雲杜氏。初めて「強力米」に向き合った中川氏と曽田杜氏は、高精白の限界に挑む気概をもって取り組み、精米歩合は40%に達した。この2年間の多くの方々の苦労に報いるためにもと、強力は純米吟醸造りとし、低い温度で長い時間をかけてゆっくりゆっくり醸した。そして「食用米としても実に美味な希有な酒米」でもある特製を生かし切るためにも、炭素濾過をぎりぎりまで少なくした。

曽田杜氏が長い年月をかけて培った知識と技術、そして何物にも代え難い研ぎ澄まされた勘が見事に融合されていった。

ー今「強力」の命を宿した清酒が蘇るー

平成2年(1990)2月純米大吟醸酒「強力」は上槽された。

「初めての経験であり冒険だった。満足のいくできでなければ出荷しないと決めていた」
という中川氏は初めて強力をきいた後の感想をこう話してくれた。

「旨かった。篤農家の心が伝わる太く力強い味。自信を持って言えた。これぞ鳥取の地酒だ」

鳥取にしかない米と水とで造られた 真の地酒 「純米大吟醸 いなば鶴 強力」 が、ここに誕生した。

酒米品種強力の純度保全をもとめて

地域の独自性を全面に出す「強力」米であるが、その種もみが県外流出したとの噂が流れたことがあった。その噂を聞き「危機感を感じた」と、中川盛雄社長。
「強力をはぐくむ会」は、酒米品種強力の純度保全と種子管理を目的として、平成10年3月に中川社長の呼びかけで設立。
水稲は年に1%程、他品種と交雑しその純度を失っていく。遺伝的純度の低い強力の種子が出回ることのないようにと、生産農家、酒造家を中心に研修会参加、また最低3年に1度の種子更新を義務づけている。また原種は鳥取県農業試験場にて育種保存されている。

中川酒造で使用する強力米は、強力米が復活した西尾隆雄氏の3畝の田で獲れたものを毎年種籾としている。
また、中川社長は「強力」という名を商標登録し、「強力をはぐくむ会」会員蔵元には、独占を拒み、あえてその商標使用を開放している。

杜氏紹介

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杜氏「原田 慎」


現代の名工::元出雲杜氏組合長曽田宏氏に師事し、
平成20年に中川酒造杜氏に就任。
中川酒造㈱は、平成28年に全国でいち早くHACCP適合施設認定を取得。
長期低温醗酵・少量仕込サイズ・革新的仕込スケジュール等
伝統的技術を遵守しつつ、衛生的かつ合理的醸造システムを確立した。
先進的に成長を続ける技術責任者として活躍中です。